質問のリスト
①研究発表会や論文コンクールにおける審査と、論文出版の際の査読とはどのように違いますか。
②論文コンクール・研究発表会での受賞と査読有り論文誌への出版では、どのような違いがありますか。
③一般研究でも研究発表会でのポスター賞や論文賞がある聞きますが、一般研究における論文評価や研究者の能力評価はどのように行われているのですか。
④研究結果の発表は英語で行うのがよいと聞いているが、「生徒の理科」では英語の論文は受け付けないのですか。
⑤論文に必要な新規性について、「日本語で行われる高校・中学・小学の理科教育とこれまでの生徒理科研究を超える新規性」とするとのことですが、このように考える理由を説明してください。
⑨理科塾等で理科研究を行い、研究論文を「生徒の理科」に投稿する場合、論文の責任著者は学校教師としますか、それとも理科塾の講師としますか。また、生徒の所属は学校としますか、それとも理科塾としますか。
⑩研究過程で大学教員にさまざまな指導援助・助言を受けたり、実験機器を使わせてもらったりした場合、責任著者はその大学教員としますか、それとも学校教師としますか。
⑪公的研究資金を著者が所属する学校または著者(指導教員または生徒)が受けていない場合は、論文出版奨励金の援助を申請できるとあるが、塾で生徒の理科研究を行った場合は、奨励金の対象とはならないのですか。
⑭教科書にある「実験」や「探究活動」と同じ実験方法で、対象や材料をかえたり、条件をかえるだけで新規な研究となるなら、新規性のある研究課題は無数にあるように思えるが、それでよいのですか。
⑮新規性があれば研究として成り立つことはわかりましたが、かといって同じ実験を延々と対象・材料を変えて行うのは意欲をそがれるし、生徒も興味を持たないのではないでしょうか。
⑯教科書にある法則の検証で教科書と同じ条件・範囲・対象・方法で実験をしても教科書とは異なる結果を得た場合は新規性を主張できる、あるいは、結果の解釈では法則に合う部分よりも外れる部分に注目することが大切だとあるが、この考え方だと、生徒の実験操作の間違いやデータ処理のまちがいを新規な結果としてしまう可能性があるのではないか。
⑰研究課題を選ぶときに「実感可能性」が重要で、対象・現象を繰り返し観察・体験し十分味わうことができる課題を選ぶべきだしているが、大学教員等の研究者には、目の前には見ることのできない極小の現象や瞬時に起こる変化などを研究している人もいる。これをどのように考えるのか。
⑱出版料の金額はどのように使われるのか。その金額の根拠は何か?
⑲「査読有り論文誌でないと正式の発表論文と見なされず論文にも引用されない」といいながら、他方で一部の論文コンクールに提出された論文(審査資料)をチェック・引用必須情報とするというのは矛盾しているのではないか?
⑳一部の論文コンクールでは一年間に行った研究データだけを発表するという条件を課しているものがあるが、一年以上前に行った研究結果を含めることはできますか。
21. 大学に進学した後、高校時代に行った研究を生徒の理科に投稿することはできるのか?
22. 論文出版料はだれが払うべきなのか。また、著者が支払う場合、指導教師と生徒の間でどのように負担すべきなのか?
23. チェック・引用必須情報にある文献と教科書と研究に参考とした文献だけを、新規性を主張するための超えるべき既知情報とすると、他所ですでに明らかにされていることを新規な研究として論文出版される可能性があるが、それでよいのか。
24. 生徒理科研究の報告集を多くのSSH校が配布しているが、そこに掲載された論文は引用する必要はないのか。あるいはそこに掲載された研究と同様の研究を別のものが新規の研究として論文出版する場合が考えられるがそれでよいのか。
25. 生徒の理科では投稿論文は2名の査読者により査読され、その結果を編集委員が評価し、その結果に基づき編集部が最終的な出版の可否を決定るすとしているが、これで論文審査の公平性は保証されるのか。
26.「生徒の理科」は査読有り論文誌としているがそこに掲載された論文は一般研究の論文に引用してもらえるのか。
質問と答え
①研究発表会や論文コンクールにおける審査と、論文出版の際の査読とはどのように違いますか。
(答え)この2つは、目的・評価内容・評価方法の点で大きく異なります。第1に、研究発表会や論文コンクールにおける審査は発表論文に順位をつけて受賞者を選ぶために行われます。しがたって発表論文に対する質問やコメントは発表内容や発表者の考え方・理解の程度を正確に評価するためにおこなわれます。また、応募者全員に等しくは行われず、一部の受賞可能性のある者に対してのみ詳細に行われ、順位づけに利用されます。そして賞の数だけ受賞者が選ばれます。一方、論文出版の際の査読は、投稿論文の出版可否の判断と論文内容の改善のために行われます。したがって査読では、出版可否の判断とともに問題点の指摘と出版可とするために必要な改善方法の提案が行われます。また、指摘・コメントは論文すべてに対し等しく論文に応じた内容で行われます。さらに出版の可否判断はその論文自身の評価に基づき行われ、論文数による制限はありません。第2に、研究発表会やほとんどの論文コンクールにおける審査はポスターあるいは研究概要(論文)と口頭発表によりに評価され順位付けに利用されますが、評価内容のフィードバックや書き直しによる再評価はありません。しかし、論文出版の際の査読は、文章として書かれた論文について行われ、評価・コメントは文書で著者に知らされ、追加実験・書き直しが求められます。書き直された論文は再評価され、一定のレベルに達したものだけが出版可とされます。
②論文コンクール・研究発表会での受賞と査読有り論文誌への出版では、どのような違いがありますか。
(答え)大げさに言うと、社会的な意義あるいは発表者の人生における意義に違いがあります。論文コンクール・研究発表会での受賞は、そのコンクール・研究発表会に参加した多くの研究の中から、他と比べて優れた研究として選ばれたということです。したがって、その時点で他より優れているとして受賞したという事実が生徒や指導した教師、その所属する学校などの誉れとなります。また、受賞したという事実が歴史に残ります。しかし、提出された論文は論文発表会・コンクールのための会議録(Proceedings)・審査資料というべきもので、原著論文(正式の学術論文)とは見なされません。したがって、発表内容が他者に引用されることも、生徒理科研究の発展に貢献すこともありません。一方、査読有り論文誌への出版は、専門家の査読により論文が新規性や重要性から見て社会的に公表・記録する価値があると評価されたことを意味します。他の研究より優れているか否かではありません。そして、研究論文が社会的に価値あるものとして公表・記録されたということが、生徒や指導教師、所属学校などの誉れとなります。当然、出版論文は学術論文として研究史に位置づけ・評価されたり、多くの人に読まれたり引用されたりして生徒理科研究の発展に貢献します。簡単にいうと、発表会・コンクールでの受賞は個人的名誉であり、論文出版は社会的貢献であるといえます。以上の違いを考慮すると、生徒理科研究の最終目標を査読有り論文誌への出版とし、研究発表会や論文コンクールでの受賞はそれにいたる途中過程であるとして、両方を目標とするのが適切です。また高校等が行う自校生徒の活躍や教育成果の紹介においても、今後は受賞記録だけでなく、出版論文数や出版論文内容の紹介が求められるでしょう。
③一般研究でも研究発表会でのポスター賞や論文賞があると聞きくが、一般研究における論文評価や研究者の能力評価はどのように行われているのですか。
(答え)大学以上の一般研究でも学会発表にポスター賞やプレゼンテーション賞などを出すことはよくありますが、これは研究を担う大学院学生や若手研究者の意欲刺激のためです。しかし大学院学生や若手研究者がその受賞を目標として研究したり、発表したりしているわけではありません。目標はあくまでも査読有り論文誌への出版です。また、論文賞を設けている学会も多くありますが、それは出版された論文に対してで、出版に至らないものに論文賞が与えられることはありません。では、一般研究では研究者間で論文の価値や研究能力を競うことはないのかといえば、答えは「ある」です。各論文誌にはインパクトファクターという、掲載論文の平均被引用数の大きさにもとづいた格付けが存在し、研究者間ではインパクトファクターのより高い論文誌に出版することが誉れとなります(これには批判もある)。各研究分野ごとに世界的トップジャーナルが数誌あり、そのような論文誌に掲載される論文は新規性や重要性の点で評価の高い論文とされます。トップレベルの論文誌では、投稿論文の中から一部の価値の高い(と編集者や査読者が考える)論文だけを選んで出版し、他は「他の論文誌に投稿してください」として掲載拒否することにより、その評価を維持し、高めています。また、研究者の総合能力の評価は、研究内容によるのが本来あるべき姿ですが、研究内容の評価のし方は人により異なり、さらに専門外の人には分かりません。そこで現実には、どれだけ評価の高いトップジャーナルに出版しているのかという論文の質と、査読有り論文誌に出版された原著論文数という量で評価が行われています(もちろんこれにも批判がある)。また、出版論文の被引用数の合計や、科学研究費の取得実績などの2次資料で能力評価する人もいます。ちなみに、ノーベル賞の選考は出版された論文内容の価値や重要さそのもので行われ、出版論文数や出版論文誌のレベルでは評価されないと聞いています。まとめると、一般研究は、あくまでも査読有り論文誌での出版を目指して行われ、学会発表等はそれに至る一過程です。研究内容や研究者にたいする評価や表彰は、若手の意欲刺激のための一部の賞を除いて、すべて出版された論文の量・質・内容について行われます。言葉を替えれば、一般研究では個人的名誉と社会的貢献が一体のものとして取り扱われているといえます。生徒理科研究も、将来、そのようなものに発展していくことを期待しています。
④研究結果の発表は英語で行うのがよいと聞いているが、「生徒の理科」では英語の論文は受け付けないのですか。
(答え)英語で書かれた論文は受付けません。ただし、論文データベースへの登録と引用のために論文表題・著者名・要旨だけは英語表記を論文の最後に添えます。英語の論文を受け付けない理由の第1は、「生徒の理科」は論文出版を通じて日本の(正確には日本語を母語とする、あるいは日本語で科学を学ぶ)生徒間の研究交流を活発にし、生徒理科研究を発展させるために出版する論文誌だからです。効果的な研究交流は、論文の著者にとっても読者にとっても最も自由に操れる言語で行われてこそ可能だと考えます。論文で複雑な現象を記述したり緻密な論理を展開したりすることは母語でなければ困難です。また、論文内容の正確な理解や多くの情報収集は母語でこそ可能です。もちろん、現代の多くの研究論文は英語で発表されるので、生徒のみなさんが将来(大学以上のレベルでは)英語で研究交流できるようになることを期待しています。第2の理由は、英語の文章を自由に読んだり書いたりできる人は、最初から英語で科学研究をすべきで、「生徒の理科」のカバーする範囲ではないと考えるからです。英語力が十分な生徒には欧米で出版されている生徒理科研究のための英語論文誌を紹介します。このホームページの「関連情報」のページに載せてあります。英語での交流は、研究情報の量、質ともに日本語で行うよりはるかに高いレベルで可能です。また、生徒研究から英語で行われる(大学以上の)一般研究への移行もスムーズに行えます。しかし、英語で科学論文を読み書きできるようになったからといって、かならずしも日本語でそれができるわけではありません。日本語で読み書きするにはそれなりの訓練が必要です。したがって、そのような生徒には将来日本語でも科学論文や科学的文章を読み書きできる人になってほしいと期待しています。
⑤論文に必要な新規性について、「日本語で行われる高校・中学・小学の理科教育とこれまでの生徒理科研究を超える新規性」とするとのことですが、このように考える理由を説明してください。
(答え)一般に研究論文には新規性が必要です。論文は現在(これまで)の科学では知られていない事柄を明らかにし、科学を発展させるために出版されるものであるからです。したがって、(大学以上のレベルの)一般研究では全世界的・全歴史的視野での新規性が暗黙の前提として求められます。しかし、そのような新規性は現実的ではないとして、何らかの限定された範囲内(例えば日本国内あるいは特定の対象や応用目的)での新規性でもって論文出版している分野も多くあります。一般論としては範囲が広すぎては情報が多すぎて議論・論証が困難だし、狭すぎては広範な興味を得られません。この範囲をいかに的確に設定し新規性と現実性を両立させるのかは、論文誌出版者や研究者の知恵の絞りどころです。「生徒の理科」では建前としても全世界的・全歴史的レベルの新規性は採用しません。また、一律の基準も設定しません。しかし、最低限のレベルとして、「日本語で行われる高校・中学・小学の理科教育とこれまでの生徒理科研究を超える新規性」を条件とします。そして、論文にはどのような範囲で調べたところ新規なのかを明確に述べることを求めます。この条件は、「生徒の理科」が生徒理科研究のための論文誌であるという特殊性を踏まえた工夫です。私たちは、この工夫により、①「新規性」の基準が明確になり、何が新規で何が新規でないのか、高校教師・生徒でも確認できる環境、同じ立場に立って自由に議論し判断できる環境を整えたいと考えるからです。また、「新規性」についてその分野を専門とする大学教員(研究者)にしか判断できないという生徒理科研究の現状を打破したいと考えるからです。これにより初めて新規性のある独創的な研究課題を生徒・教師自らが提案できるようになるでしょう。②また、「これまでの生徒理科研究をこえる」論文を公表・記録することにより、論文の蓄積にともない生徒理科研究に発展史をつくりだしたいと考えるからです。発展史が生じれば、各論文はその中で評価・意義づけされ、他者に引用されるようになります。その結果、生徒理科研究は探求能力の向上という個人的意義だけでなく、生徒理科研究の発展という社会的意義を持つことになります。そして、生徒・教師は理科研究を通じて生徒理科研究の発展に貢献できるようになるでしょう。これら2つを実現するには、一般公開された生徒理科研究論文情報の拡大と蓄積が重要です。「生徒の理科」の出版はそのための一つの取り組みです。研究論文の無料web公開には、論文の質・信頼性の担保と、「重複投稿の禁止」、「知的所有権」への適切な対応が重要です。生徒理科研究の発表会・論文コンクールに取り組む諸団体がこの問題を適切にクリアし、論文情報の公開と共有に参加されることを期待します。
⑨理科塾等で理科研究を行い、研究論文を「生徒の理科」に投稿する場合、論文の責任著者は学校教師としますか、それとも理科塾の講師としますか。また、生徒の所属は学校としますか、それとも理科塾としますか。
(答え)この場合は理科塾の講師とします。理科塾等で塾講師の指導の下に研究が行われた場合はその塾講師が責任著者となります。また、著者の所属先はその研究が行われた場所、すなわち塾が所属先となります。しかし、「生徒の理科」は高校・中学生徒の研究を対象とする論文誌です。したがって、そのことを明確にするために生徒の所属先は塾と学校の両方にします。具体的な記述のしかたは「生徒の理科」2016号に載せた見本論文2016-1を参考にしてください。
⑩研究過程で大学教員にさまざまな指導援助・助言を受けたり、実験機器を使わせてもらったりした場合、責任著者はその大学教員としますか、それとも学校教師としますか。
(答え)生徒の所属する学校教師が責任著者になります。責任著者は日常的に生徒の理科研究を把握しその実現のためにさまざまな指導・援助を行い、論文内容に責任を持つことのできる者、すなわち学校教師あるいは塾講師がなります。研究の一部について助言・指導を行ったり実験機器や実験場所を提供したりした大学教員はその対象ではなく、謝辞で述べるだけでよいと考えます。大学教員はそもそも世界的な視野で研究を行っており、大学教員が共同著者や責任著者となる論文は、たとえ高校・中学生徒が重要な貢献をした場合でも「生徒の理科」の対象範囲の論文ではないと考えます。
⑪公的研究資金を著者が所属する学校または著者(指導教員または生徒)が受けていない場合は、論文出版奨励金の援助を申請できるとあるが、塾で生徒の理科研究を行った場合は、奨励金の対象とはならないのですか。
(答え)対象とはなりません。塾はそもそもそのサービスに必要な経費は塾料として塾生(その保護者)からとることから成り立っています。したがって、塾生の研究論文の出版料は塾料に含まれていると考えています。しかし、塾生の負担軽減の点から、塾が積極的に公的研究資金を取得することも重要だと考えています。残念ながら現在のところ塾などの民間機関の取り組みに対する公的支援制度はわずかですが、生徒理科研究の本格的な振興には民間機関の果たす役割が重要だと思いますので、活躍を期待します。
⑭教科書にある「実験」や「探究活動」と同じ実験方法で、対象や材料をかえたり、条件をかえるだけで新規な研究となるなら、新規性のある研究課題は無数にあるように思えるが、それでよいのですか。
(答え)それで結構です。新規性のある研究課題は無数に考えることができます。たとえば、全世界の現在知られている(維管束)植物は27万種とされています。このすべてについて光合成産物がデンプンか否かをしらべていくと、それだけで27万個の研究が成り立ちます。しかし、この内、これまでに調べられたものはごく一部にすぎません。われわれは一部のものを調べた結果から、その他もたぶん同じだろうと推測しているだけです。じつは、この推測の論理が科学法則です。したがって、新しい植物を調べて既知の科学法則が成り立つことを明らかにすれば、科学法則はより固いものになります。一方、調べたところ既知の科学法則とは異なることが分かれば、既知とは別のスタイルの植物もあることが分かります。すなわち、科学法則を新しい段階に発展させることになります。したがって、これまでに調べられていない植物を調べることはそれだけで新規性のある意義のある行為です。しかし、ただ同じことを延々と何万回も繰り返して調べるだけが科学かと問われれば、「いいえ」と答えます。人間が理解したいと思う現象は無数です。しかし、人間が科学研究にさける労力・時間・経費には限度があります。そこから、人間は、同じ研究を行うならただ個別的事実を収集・記録するのではなく、一部の既知情報から全体を推測する論理を考え出したり、ことなる側面・現象・レベル(現象の現れる対象の大きさのちがい)を調べて、論理でその間をつないだりすることにより自然全体を理解しようとしてきました。すなわち、自然を限られた既知情報と科学的推論により法則的・体系的に理解するという方法です。ここから、科学研究の世界では、同じ新規性のある研究でも、既知のものとはことなる側面・現象・レベルを調べる研究、あるいは、既知情報からは予想できないこと・事例を明らかにする研究はより新規性が高く、価値が高いと評価されます。この評価の程度の違いが「新規性のレベル」の違いです。大学以上の一般研究における論文出版ではこの「新規性のレベル」が厳しく問われます。ニュースなどに出てくる評価の高い(有名な)論文誌は特にそうです。過去のものと同じことを別の対象で行ったというだけの研究は「銅鉄主義」として低い評価しかあたえられず、普通(無名)の論文誌にしか掲載されません。しかし「何が銅鉄主義で何が銅鉄主義でないのか」、すなわち「なにに価値があり、なにに価値がないのか」は研究者(論文誌編集者)の主観(カン)によるところも多く、客観的・絶対的基準は定められません。10年前には見向きもされなかった研究が、今や重要な意義ある研究として注目されることもよくあります。また、現実の科学の歴史では「銅鉄主義」とよばれる研究から偶然に思いもよらぬ新発見がもたらされ、科学が発展してきたというのも事実です。したがって、「生徒の理科」では、著者に「新規性」と「研究の意義」の説明を求めますが、「新規性のレベルの違い」で論文出版の可否は判断しません。「新規性」に合理性があればすべて出版可と判断します。すなわち、「生徒の理科」は新規性の高い論文を歓迎しますが、「銅鉄主義」論文も同様に歓迎します。
⑮新規性があれば研究として成り立つことはわかりましたが、かといって同じ実験を延々と対象・材料を変えて行うのは意欲をそがれるし、生徒も興味を持たないのではないでしょうか。
(答え)その通りです。新規性があるからと言って同じ実験を対象・材料を変え延々と行って論文出版するのでは、研究を行う生徒・教師も面白くないし、出版論文を読む読者も興味を持たなくなるでしょう。そこで、研究を行う者の対応策としては、単に対象・材料が過去のものと異なるというだけでなく、新規性に何らかの意味づけを与える工夫をします。たとえば先の光合成産物の調査研究を例にとると、まず、教科書どおりジャガイモの葉を調べ光合成産物がデンプンであることを証明します。そしてこれと比較して、葉野菜ではどうかとしてレタスなど数種をしらべ、最初の論文を書きます。つぎは、では根菜ではどうかとして人参など数種を調べて論文を書きます。さらに樹木ではどうかとしてカキなど数種をしらべる、針葉樹ではどうかとして杉など数種を調べる、単子葉植物ではどうかとしてイネなど数種を調べる、乾燥地の植物ではどうかとしてサボテンなど数種をしらべる、さらに藻類ではどうかとしてワカメなど数種を調べるなどなど、分類や生態のことなる種類に調査範囲を広げていくと多くの論文が書け、しかも、データが増えれば増えるほど面白い研究となります。また、春の若葉、夏の青葉、秋の紅葉など季節変化や成長による光合成産物の変化を調べても新規性に新しい意味づけを与えられます。要は新規性に意味づけを与えることで見え方が大きく変わり、論文の価値も変わります。意味づけの方法は研究者の工夫しだいです。これこそがその研究者の想像性であり、創造性です。
⑯教科書にある法則の検証で教科書と同じ条件・範囲・対象・方法で実験をしても教科書とは異なる結果を得た場合は新規性を主張できる、あるいは、結果の解釈では法則に合う部分よりも外れる部分に注目することが大切だとあるが、この考え方だと、生徒の実験操作の間違いやデータ処理のまちがいを新規な結果としてしまう可能性があるのではないか。
(答え)確かにその可能性はあります。実験開始後しばらくの間は、実験操作の不手際や操作ミス、データ処理の間違い、実験材料(動植物)取り扱い技術の未熟さなどにより、法則とはことなる結果、既知情報に合致しない結果、あるいはブレの大きい結果が得られることがよくあります。このような初期エラーは、実験を繰り返して慣れていく中で次第に解消していきます。このような時は、初期に得たデータは捨て、実験操作にしっかり慣れてから取ったデータを正式の結果として採用します。しかし、法則や既知情報と異なる結果が繰り返し出つづける場合もあります。このような時はそもそもの実験方法・データ処理法が計画段階から間違っている可能性があります。まず、計画が適切か否かを慎重に検討します。同じ実験を行ったという既知情報があれば、それと同様の実験を行い、同じ結果が得られるか否かを調べるのも解決策の一つです。しかし、実験方法・データ処理法が適切なのに、どうしても既知情報あるいは法則から予想されるものとは異なる結果が得られる場合は新規な結果と判断しなければなりません。このような新規性は突然、思いもよらない方向からやってくるので、なかなか受け入れられません。しかし、既知情報や法則にこだわりすぎると、せっかくの新発見のチャンスを逃すことになります。生徒だけに任せず指導教師が自ら実験を行って納得できるまで確かめるのも現実的な解決策の一つです。ともかく、このような時にはあいまいにせず徹底的に取り組みましょう。目の前に展開する思いもよらない実験結果を新発見だと認めるには、勇気が必要です。既知情報と教科書にある法則だけから現象を解釈するのは何の苦労も心配もいりません。しかし、新発見の女神はリスクをとる勇気のない人にはほほえんでくれないことを銘記すべきです。
⑰研究課題を選ぶときに「実感可能性」が重要で、対象・現象を繰り返し観察・体験し十分味わうことができる課題を選ぶべきだしているが、大学教員等の研究者には、目の前には見ることのできない極小の現象や瞬時に起こる変化などを研究している人もいる。これをどのように考えるのか。
(答え)確かに大学教員等研究者の中には、目で見ることのできない極小の世界や、目では見ることのできない広大な宇宙空間の世界、あるいは、瞬時に起こる現象や数百万年から数億年かけておこる現象を研究している人がいます。研究者は、極小あるいは巨大な対象をあたかも目の前に見える数センチの玩具のようにとらえたり、瞬時に起こる現象や逆に長時間かけて起こる現象をあたかも数分間で起こる現象のようにとらえて、考えたり議論したりします。また、文章と数式だけで書かれた論文を読んで、あたかも目の前にものが見えるかのように模式図に表したり、それを利用して議論したり、考えたりします。これは毎日の研究活動の中で、研究者は現実には見えない抽象的なものをあたかも目の前でその形や動きが見えるかのようにとらえて、話したり考えたりする能力を訓練し獲得しているからです。そして、研究の結果明らかにしたことも、多くの場合、模式図で表して説明します。実は、この抽象的なものをあたかも目の前に見えるかのようにとらえて考える能力は研究者の研究能力あるいは創造性と深く関係する能力で、逆に、これができない人はすぐれた研究者になることはできません。生徒研究発表会などで初めて聞くことでもあたかも前から知っていたかのように質問したり議論したりする大学教員の姿を見かけたことがあると思いますが、それはこの能力によるものです。この能力に関して重要なことは、たとえ目の前に現実にあるものであっても、ことばと模式図をもちいて概念的にとらえ、そのものの構造やはたらきについて考えたり議論したりするには、この能力が必要であるということです。したがって、この能力は研究一般に必要とされる能力です。高校生には研究に取り組む中でこの能力を磨いてほしいと思いますが、それには、まず目の前にあるものを頭の中でありありと思い描くことができるようになることが必要と考えます。
⑱出版料はどのように使われるのか。その金額の算定根拠は何か?
(答え)出版料は研究所の運営経費と査読・編集にかかわる謝金に使われます。現在は論文投稿がなく無収入で、しかも公的支援や寄付もなく、やむなく理事の支払う年会費と理事から受けた基金をとりつぶして活動しています。将来、論文出版料収入が得られれば、その使途は以下の通りです。研究所と編集部の運営経費としては、ほぼ半額がパート事務員人件費(1名分)で、その他に事務所(一室)のレンタル料、税金・法人登録料、情報機器ソフト料、旅費、一般事務経費等です。謝金は編集・査読者に対する謝金です。査読は基本的に無報酬のボランティアでお願いしますが、特定の人に多数回の査読をお願いする場合は年2報を超える場合は少額の謝礼を支払います。論文出版料の算定は、年間70~80報の論文投稿があれば公的支援がなくても研究所として自立できる料金(損益分岐点)を設定しています。この数は約200校のSSH校の存在を考えれば可能な数です。それまでは人件費・謝金をゼロとして活動はすべて無報酬で行い、事務所は理事の個人住宅を無料で借り、経費を最低限に抑えて活動します。研究所の主旨に賛同される方の寄付を訴えます。
⑲「査読有り論文誌でないと正式の発表論文と見なされず論文にも引用されない」といいながら、他方で一部の論文コンクールに提出された論文(審査資料)をチェック・引用必須情報とするというのは矛盾しているのではないか?
(答え)そのとおり矛盾です。この矛盾は生徒理科研究の現状を反映した矛盾で、生徒理科研究の発展の中でしか解決しません。
一般に査読有り論文誌でないと正式の発表論文とは見なされません。しかし、現状では、生徒理科研究論文のほとんどは査読有り論文誌には発表されていません。したがって、現状では信頼性が担保された正式の論文はほとんどない、すなわち引用すべき生徒理科研究論文はないということになります。一方で、多くの生徒理科研究論文が論文コンクールに提出され、審査の結果、優秀と判断された論文の一部はweb公開されています。この中には、現在の生徒理科研究の中でトップクラスの優れた論文が含まれています。これらの論文は査読を経た論文ではないが、過去および現在の生徒理科研を代表する論文であり、現状ではチェック・引用必須情報としてその研究成果を継承・引用するのが適切だと考えます。しかし、将来、生徒理科研究論文の多くが査読有り論文誌に掲載・発表されるようになれば、この事情は変化するでしょう。
⑳一部の論文コンクールでは一年間に行った研究データだけを発表するという条件を課しているものがあるが、一年以上前に行った研究結果を含めることはできますか。
(答え)一部の論文コンクールでは一年間に行った研究データだけを発表するという条件を課しているものがありますが、「生徒の理科」誌ではこの考え方を取りません。数年にわたって行った研究でも、先輩から継続してきた研究でもOKです。「生徒の理科」は研究成果を評価し社会的に公表・記録するための論文誌で、研究を行った生徒の個人的能力を評価し順序づけるための雑誌ではないからです。ただし、すでに他の論文誌に出版した論文に載せたデータは二重投稿の禁止に抵触するので含めることはできません。
21. 大学に進学した後、高校時代に行った研究を生徒の理科に投稿することはできるのか?
(答え)大学入学後に高校で行った研究を論文にすることはできます。研究のほとんどの部分が高校時代に行われており、研究指導者が高校教師等であれば「生徒の理科」誌に論文投稿できます。その際の所属は研究を行った高校等で現在の所属(大学)ではありません。(一般研究論文でも、著者の所属はその研究が行われた時の所属組織を記載します。)
22. 論文出版料はだれが払うべきなのか。また、著者が支払う場合、指導教師と生徒の間でどのように負担すべきなのか?
(答え)その論文が学校の教育研究活動の一環として行われた研究の成果報告として出版される限り、論文出版料は研究費の一部として学校等の教育研究経費から支払われるべきです。査読有り論文誌への論文出版は研究活動の最後に取り組むべき不可欠の活動で、研究成果を社会的に正式に公表・還元するためのものだからです。これがなければ、研究成果は社会のものとならず、学校・教師・生徒は研究に取組む者として責任を完結していないことになります。とはいっても、現実には生徒理科研究のための教育研究経費をわずかしか準備できない学校も多くあります。その場合には、学校と論文著者(指導教師と生徒)が話し合ってなんとか工面するしかありません。一般に、研究計画つくるときには、かならず論文出版料を研究経費として確保すべきです。論文出版経費のない研究計画は最初から研究成果の論文出版を予定していない、不十分な研究計画です。しかし、公的な研究費が得られないというのも現実で、高校の教師が申請できる科学研究費では採択率が16%程度で、研究に取り組む者のうち約80%以上が自費(ポケットマネー)で研究に取り組んでいます。ちなみに研究を主たる任務の1つとする大学においても研究費不足は深刻です。大学から配分されるのは年間20~30万円/1教員で、まったく必要経費を賄うことはできません。そこで公的な科学研究費を申請しますが、採択率は30%程度で多くの教員・研究者が自費(ポケットマネー)で研究に取組んでいます。そして、このような研究室では研究成果発表のための学会出席旅費や論文出版料は大学教員・学生が自費として支払っています。これが科学技術立国をめざす(といわれる)日本の偽らざる現実です。
23. チェック・引用必須情報にある文献と教科書と研究に参考とした文献だけを、新規性を主張するための超えるべき既知情報とすると、他所ですでに明らかにされていることを新規な研究として論文出版される可能性があるが、それでよいのか。
(答え)それでよいと考えます。一般研究ですでに明らかにされていることが新規性ある生徒理科研究論文として発表・出版されることは十分にあり得ることで、問題はありません。
このようなことが起こる原因は、生徒理科研究論文に求められる新規性のレベルが一般研究とは異なることにあります。生徒理科研究に必要な新規性が一般研究と同じであればこの問題は生じません。しかし、前述のように生徒理科研究に一般研究と同じ全世界的・全歴史的な新規性を求めることは現実的ではありません。生徒理科研究にはそれにふさわしい独自の新規性の規定が必要です。したがって、質問のような事態は避けられません。この事態を避けようとすれば生徒理科研究の独自性を失ってしまいます。
この問題と関係して、「インターネットで調べると容易に見つかる」とか、「日本語で書かれているから分かるはず」などの理由で一部の一般研究論文をチェック・引用必須情報に加えてはどうかとの意見がありますが、それはできません。新規性の規定は生徒理科研究の存立意義にかかわることで、生徒理科研究と一般研究の違いをあいまいにすることはできないからです。また、一般研究論文は原則的に英語出版することが求められており、早晩、英語となる可能性があります。日本語で書かれた一部の一般研究論文だけを特別視する理由はありません。
しかし、この新規性の規定は、チェック・引用必須情報以外を無視してよいとしているわけではありません。チェック・引用必須情報以外の論文は、「その他の参照情報」という扱いになります。すなわち、その評価と取り扱いは読者の判断に任されます。読者がその論文・情報を自分の研究に参照するなら引用する必要があります。しかし、知らない場合、または、知ったとしても参照しない場合は引用しなくて結構です。
24. 生徒理科研究の報告集を多くの高校が配布しているが、そこに掲載された論文は引用する必要はないのか。あるいはそこに掲載された研究と同様の研究を別のものが新規の研究として論文出版される場合が考えられるがそれでよいのか。
(答え)それでよいと考えます。SSH校の生徒研究報告書に掲載された論文の引用は義務ではありません。また、その後に別の者が同様の研究を査読有り論文誌に発表・出版してもやむを得ません。
なぜならSSH校生徒研究報告書は一般web公開されていない、査読有り論文誌ではないという2点で生徒理科研究のチェック・引用必須情報にはあたらないからです。同報告書は一部の高校へのみ配布されるものでだれでも見ることのできるweb公開ではありません。また、報告書の論文は明確な基準に基づく査読を経た原著論文ではないという点で、信頼性の担保された査読有り論文誌への掲載とはみなすことができません。したがって公開性と信頼性の2点でチェック・引用必須情報とはみなされません。
しかし、全く無視されるわけではありません。同報告書の論文は、「その他の参照情報」という扱いになります。前述のとおり、その評価と取り扱いは読者の判断に任されます。
同様の事情は一般研究でもよくみられます。大学に提出され、学内発表会で紹介される卒業論文や修士論文は他者により引用されることはありません。さらに、国内学会や国際学会でいくらポスター発表や口頭発表を重ねていても、その論文が査読有り論文誌に掲載されなければ他者に引用されることはありません。その後、他者によってほとんど同じ研究が査読有り論文誌に発表されることがあります。このとき自分の研究結果を見たのではないかと疑っても詮無いことです。もし自分の論文が他者に無視されたくないのなら、web公開された査読有り論文誌に発表・出版すべきです。ともかく研究の新規性(Originality)はより早く査読有り論文誌に発表したものに有ります。この場合、より有名な論文誌に掲載されたということでも賞をもらったということでもないことに注目しましょう。
25. 生徒の理科では投稿論文は2名の査読者により査読され、その結果を編集委員が評価し、その結果に基づき編集部が最終的な出版の可否を決定るすとしているが、これで論文審査の公平性は保証されるのか。
(答え)「公平性が保証されるのか」と問われれば、「保証」はないと答えざるを得ません。しかし、2名の査読委員が審査を行い、担当編集委員がレフェリー役を果たすというのは、審査の公平性と迅速さを考えると合理的な方法です。そもそも研究論文は学校の試験や大学入試問題のように正解の定まったものではありません。一般研究においては、論文査読は、研究方法や手続きと論理が一般的研究レベルに照らして合理的に行われているか、および、研究内容の新規性のレベル(インパクト)が現在の科学研究に照らしてどの程度かの判断によって行われます。このうち、研究方法と手続きと論理の合理性は比較的客観的に判断できますが、新規性のレベルは主観的な部分が大きくなります。しかも、論文誌によって求めるレベルが異なります。したがって、査読結果に不満を持つ論文著者は多いと思われます。しかし、それでも各研究誌には掲載論文のレベルについての社会的評価がインパクトファクターという形で存在します(インパクトファクターはその雑誌に出版された論文の平均被引用回数により計算されます)。生徒理科研究では、新規性は求められますが、そのレベルは問わないというのが「生徒の理科」誌の考えです。その理由は、①現在の生徒理科研究には独自の研究動向や研究史が存在せず、そもそも新規性のレベルを比較する独自の基準がない、②あえて新規性レベルを問題にすると、一般研究の新規性レベルに近いものを評価するという、生徒理科研究の独自性の否定につながりかねないからです。したがって、生徒理科研究論文の出版に求められる条件を、研究方法と手続きと論理の合理性(高校3年生程度のレベル)と新規性の存在(レベルを問題にせず)としています。しかしそれでも見解の相違は出てきます。どんな研究でも厳密な論理と確実な証拠を求めると、不十分さを完全にのぞくことが困難であるからです。したがって、査読には公平性も重要な基準となります。すなわち、他の生徒理科研究論文のレベルに比べてそん色がなければそれでよしとするという常識的判断です。(その結果、混入する間違いは他者による批判的論文によって是正されることを期待しています。)したがって、論文投稿者はこのことを理解したうえで、査読結果に合意しない場合は、異議を申し出ることができます。ここで重要なことは、論文著者と査読委員との関係は(何が正しいかを知っている)先生と(勉強中の)生徒の関係ではなく、論文査読基準と評価の公平性の上に行われる科学的論争であるということです。
論文評価の公平性の確保のためのもう一つの方法は、社会の中に論文誌が1つではなく、複数存在することです。公平に査読するとしても、論文評価にはさまざまな意見があり、これを無理やり統一すべきではありません。社会の中に論文誌が1つしかないと、その論文誌のとる評価法・考え方が権威となり科学の発展を阻害する可能性があります。科学の発展過程ではこれまでにない新しい研究方法や考え方が出現し旧来のものと競争しながら、旧来のものを駆逐したり、逆に旧来のものに押されて途絶えたり、あるいは、両者が役割分担をして共存したりすることが頻繁に起こります。このような多様で自由な動きが科学の発展をもたらします。この自由と多様性を保証するには、複数の論文誌の存在が重要な意味を持ちます。
26.「生徒の理科」は査読有り論文誌としているがそこに掲載された論文は一般研究の論文に引用してもらえるのか。
(答え)引用されることはまれだと思います。「生徒の理科」は生徒理科研究のための査読有り論文誌であって、一般研究のための査読有り論文誌ではありません。「生徒の理科」に掲載される論文は生徒理科研究レベルの論文としては科学的に信頼性のあるものです。しかし、論文掲載に必要な条件、すなわち、新規性の評価法や研究方法・データ量が一般研究とは異なります。したがって、一般研究に取り組む研究者が「生徒の理科」掲載論文を必須の科学情報として論文検索の対象とすることはありません。一般研究から見れば「生徒の理科」掲載論文はその他の一般情報と見なされ、読者(研究者)が信頼性と科学的意義を認める場合にのみ引用されるといえます。もし、生徒理科研究の中で一般研究に匹敵する研究成果を得、一般研究論文としての社会的評価を求める場合には、「生徒の理科」ではなく一般研究のための査読有り論文誌に発表しなければなりません。